主の慈愛に触れるとき

ロマ2:4「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」
エス様は律法学者を強く非難しました(マタ23章)。その批判とここに書かれてあるパウロの忠告はよく似ていると思います。両方とも外見、あるいは外側に現れるものに捕らわれるな…と言っているみたいです。パウロはクリスチャンになった人たちに言っているのです。教会の中には、色々なパターンの人たちがいます。教える人は特に注意しなければなりません。人前に立つ人は、常に人に見られているのです。自分が教えることと、自分の行いが一致しなければ誰もその教えを信じてくれないでしょう(21)。証しが偽りであってはならないと思います。主を愛してもいないのに、「私は主を愛している」と言うなら、これほど侮辱した言葉はないのではないでしょうか?神の愛がわからないなら、「私は神の愛がわかりません」と告白しましょう。しったかぶりは、主にすぐに見破られてしまいます。主の愛に触れるとき、悔い改めに導かれます。