いや、どうしても

1サム8:19「それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません』」
イスラエルが一つになることは良いことですが、彼らの頑固な性格のおかげで間違った判断に走るのはいかがなものでしょうか?イエス様が十字架につけられるとき、ピラトは3回もイエス様を釈放するように言いますが、ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫び続けました(ルカ23:22)。サムエルが王の権利を話したときも、イスラエルの民は「それでも王が欲しい」と訴えるのです。イスラエルの民は、クリスチャンのひな形です。彼らの訴えの中には「いつも我々の眼に見えるような存在が欲しい」という意味も込められていました。見えないものに仕えたり、従うことの難しさがここに隠されています。目に見えるなら、キリストやマリヤ像であっても、あるいはローマ法王であってもいいのです。キリストの像を拝むことは、異邦の神を拝むよりましだと考える人もいるかも知れません。しかし神は霊ですから、霊とまことによって礼拝しなければならないのです(ヨハ4:23)。「いや、どうしても」と思うときがあるなら「いや、主の御心なら」…に変えられるべきだと思います。