霊的な礼拝

ロマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」
エス様はサマリヤの女に礼拝の奥義を語りました。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(ヨハ4:24)」礼拝が霊とまことによって…抽象的すぎて理解できません。パウロはもう少し噛み砕いて説明してくれています。霊的な礼拝は、からだを使うと言うことのようです。自分のからだを生きた供え物としてささげるわけです。2つの条件があります。1つは「神に受け入れられる」ということです。人の目にはよく見えても、神は心の中をご覧になります。きれいな服で着飾ったり、多くの献金をしてみたりしてもダメです。神に受け入れられるためには、もう1つの条件である「聖い」ということが必要になります。心を聖めなければ、神に受け入れられません。心にわだかまりがあったり、悩みや怒りや悲しみを抱えたまま主の前に出てはいけません。それは生きた供え物としてふさわしくないものです。霊的な礼拝をするには、目に見える体が、目に見えない聖めを受けることだと思います。見えない霊は体という目に見えるものを通して現されるからです。