書かれている通りではないが

2歴30:19「彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした」
身も清めず、捧げもののやり方も聖書に書かれているようにはできない、ともなると、もはや別の儀式です。しかしヒゼキヤが主に祈ったとき、主はすべてをお許しになりました。それは主が形式だけにこだわるのではなく、心の中を重んじておられたからです。世界中、礼拝のやり方は様々です。どの教会に行ってもまったく同じということはありません。そこに信仰があり、礼拝する心があるなら教会なのです。主はいつも心を見られます。「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる(箴31:30)」とあるように、美しいことは罪ではありませんが、やがて老いてゆき、永遠に美しさを持つことはできないのです。「女」とは教会のことです。教会の中に主を恐れる心があるなら、主から賞賛されます。この世の誰よりも主に認められ、ほめられるなら最高のできごとではないでしょうか?見た目が格好いい教会よりも、格好悪くても主を恐れ、心からの賛美がそこにあるなら、主は喜んでくださいます。