兄弟たちと同じように

ヘブ2:17「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」
神は完全なものを哀れむことはできません。完全な人は主だけしかいないのです。そういう意味では、イエス様があわれみを受けることは難しいことです。そのためイエス様は人と同じ肉を持たれました。あわれみを受け、罪人のひとりとして数えられるためです。罪は犯しませんでしたが、洗礼を受け、人と同じ試みに会われました。傷ひとつない罪のための捧げものを捧げるには、イエス様に罪があってはなりません。イエス様が死ぬのは、ご自分の罪のためでなく、すべての人類の罪のためでした。人が死ぬのは裁きを受けるためですが、イエス様は神のなだめのために死なれたのです。両者の死には大きな違いがあります。イエス様は、仕える姿をとり人間と同じようになられたのです(ピリ2:7)。あまりにも大きな代償がそこにはあります。なぜでしょう?私たちには逆立ちしてもわからないことです。強いて言うなら神の愛のゆえだと思います。