主を待ち望む人のために

ヘブ9:28「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」
罪とあがない、キリストと十字架の関係はわかりましたが、それではクリスチャンが勝利を得て誰もが不自由のない栄光に満たされた生活を送っているでしょうか?ここで書かれていることは、誰かがキリストを待ち望んでいるということです。満たされている人、特に金持ちには神が必要ではありません。神が心を満たすことと、お金が不自由さを解消することは、どこか似ているのです。イエス様が金持ちが天の御国に入ることは難しいと言われたのは、決して朽ちることのないもので満たされることが人にはわからないことを示しています。たとえ神を信じていると言っても、どんなに教会に通い祈ったとしても、心の中のことはわかりません。そんな心の中を探り、本当の信仰が試される時が近づいています。主を待ち望む人たちは、神の与えた火をくぐり抜け、精錬された金のように信仰が試されます。最後まで信仰を保つことができたとき、主は二度目に来られるのです。