恵みについて

ヨハ1:17「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」
恵みとまことが実現するまでに長い時間が必要でした。それは律法を理解し、罪を心からあぶり出すまでにそれだけの時間が必要だったとも考えられます。いけにえを使って罪を購う方法は、永遠に繰り返さなければならないもので、いつになっても罪が根本から消えるわけではありません。神はどんな生け贄を捧げても満足なさいませんでした。唯一、満足させる生け贄がイエス・キリストだったのです。このお方には罪はありませんでした。律法から言うなら、死ぬ必要などなかったのです。なぜ人のためにここまでしてくれるのか?「愛」だと多くの人は言いますが、正直、神の愛の大きさを理解するには、私たちの心は狭すぎます。律法によって、罪が浮かび上がり、人の心にはいかに不純なものが含まれているかを知ることができます。にも関わらず、命と引き換えに、人の罪を許そうとするのは「恵み」以外の何ものでもありません。律法、罪、あがない、赦し、恵み…律法から始まった一連のことは、頭では到底理解できない「恵み」のゆえなのです。