知らされる罪

レビ5:5「これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい」
たとえ気づかなくても、指導者や祭司が罪だと認めた場合は、告白しなければなりません。バスケットボールのルールに反則を犯したものは手をあげるというものがあります。審判が笛を鳴らしファールの反則があった場合、必ず誰かが手をあげなければなりません。自分に身に覚えがなくても、審判の判定には従うのがルールです。ヨブは自分たちの子供たちが、あるいは罪を犯し神をのろったかもしれない、と思い息子たちのために全焼のいけにえを捧げました(ヨブ1:5)。罪の恐ろしさは、罪であることを麻痺させてしまうことです。最初は何気なくおかした小さな過ちであっても、心に痛みがなければ悔い改めることはしないでしょう。そういう意味においては、告白は罪を気づかせる大事な要素となり得ます。ここで大事なことは気づかない罪もありうるということです。イスラエルの民に新しく与えられたルールは、気づこうが気づかまいが、神の絶対正義がそこにはあり、罪に定められたなら贖いをしない限り許されません。クリスチャンの生活においても、神と常に交わっていなければ、罪を示されずに過ごしてしまうかもしれません。救われてよかった…と思っているなら罪を知らされず、成長もしないでしょう。