欠陥のあるもの

レビ22:20「欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである」
わずかな傷や汚れがあっても捧げることはできません。そういう意味においては、羊も牛も産まれたばかりで、放牧もされたことのないものに限ります。主は8日間の時間を与え、それが過ぎたら捧げるように命じられています(27)。現代のクリスチャン生活に置き換えるなら、「奉仕」が捧げものとなるでしょう。欠陥は目に見えるものとは限りません。奉仕する際に、憤っていたり、悲しんでいたり、誰かを許していなかったりするなら、それは「傷」あるもの、すなわち欠陥と見なされはしないでしょうか?心をニュートラルにして、たとえ実生活で悩みや苦しみがあったっとしても、すべてを主にゆだねるなら「欠陥」はなくなるはずです。ゆだねる信仰こそ、欠陥を克服する唯一の方法だと信じます。もちろん、悩みや苦しみがすぐになくなるわけではありません。しかし主の前に出て祈りや賛美を捧げるときに「傷」があってはならないのです。すべてを主にゆだね、どんな問題も神が答えを与えてくれると信じる信仰を見たとき、周りの人はその人に欠陥がないと悟るのではないでしょうか?