雲が動けば

民9:22「二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った」
イスラエル人は御心のままに動いたということだと思います。祈りから応えまでが極端に短いときもあれば、何十年にわたるものもあります。主の応える時間こそ「御心」だと思います。たとえその時間が短くても、長くても、いつでも従える用意があるかどうかが問われるのです。幕屋を張ることは宿営のために必要なことですから、日々の務めとしてやることができるでしょう。しかし、レビ族は大変です。宿営のテントと神の会見の天幕とでは大きな違いがあります。とくにケハテ族は聖所の中の道具を整える役目でしたから、もし次の日に雲が動いてしまうと、せっかく整えた道具を片付け新しい場所に移り、また一からセッティングのやり直しです。でも、人が苦労しようがしまいが、主が動けと言うなら従うべきです。イスラエル人は移動を繰り返すことによって、組織力、統率力、団結力などの訓練を受けていたのだと思います。やがて約束の地に入り、近隣諸国と戦うことになりますが、イスラエルの国が侵略もされず、削られもしなかったのは、主の訓練のおかげではないでしょうか?