塩気の話

マコ9:49「すべては、火によって、塩けをつけられるのです」
ゲヘナの話が一通り終わるころにこの言葉が語られています。よく見ると44節と46節がないことに気がつきます。新改訳の下の注解を見るならば44節と46節には48節と同じ文が入るものもある…と書かれています。48節は「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」と書かれ、もし44節と46節があったらなら、これが3回繰り返されたことになります。49節にそのままつなげると、ゲヘナの火は消えることがないと3回繰り返した後で、火によって塩けをつけられる…と書かれていることになります。火は聖霊にたとえられますが、ここではどうでしょうか?もしゲヘナの火ならば、裁きの火であり、罪を犯した者に対しては消えることのない絶え間ない苦しみの象徴となります。火によって塩けをつけるとは、ゲヘナの火のような裁きや試練を通ることによって身につけることができる人格や品性のことではないでしょうか?パウロは患難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を、品性は希望を生むと語っています(ロマ5:4)。火が神からの患難や試練だとするなら、塩けはパウロの言うような忍耐、品性、希望かもしれません。我々クリスチャンは塩けを世に示しているでしょうか?忍耐しているでしょうか?品性が伴っているでしょうか?神にいつも希望を抱いているでしょうか?塩けを保つクリスチャンでありたいものです。