かたくなな心を見たなら

ロマ9:18「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」
主が心をあやつることは分かっていますが、それが御心だとどれだけの人が理解しているでしょうか?モーセの時代、パロは何度も心変わりをし、心をかたくなにしてイスラエルの民を行かせませんでした。そのとき主はモーセに「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる(出6:1)」と言われました。何か思い通りに行かないことがあっても、すべては主のご計画だと知るべきです。クリスチャン生活が何もかも、祝福、恵みで構成されていると考えているなら、その人は大きな試練にあうでしょう。逆に、何もうまくいかないほうが幸せかもしれません。その人は主を多く交わることになるからです。飢え渇きをもって主を求める姿こそ、主が望まれることです。主の祈りを、お題目のように唱えることが祈りではなく、主を求める心を持って祈る祈りこそ、本物の祈りだと思います。会社の上司の心がかたくなにされたからといって、主に不満をぶつけるのはお門違いというものです。「あの人があんなこと言わなければ…」などということは、人生では頻繁に起きます。主を信じ、人生をゆだね、神とともに歩んでいるなら、人の心が主によってかたくなにされることは、大きなメッセージが隠されていると悟るべきでしょう。