クリスチャンであっても

1コリ10:4「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」
出エジプトを達成したイスラエル人は、荒野ではマナを食べ、岩から出た水をともに飲みました。荒野は約束に入る前の土地、すなわち私たちが住んでいるこの世界をあらわしています。マナは御言葉、水は聖霊です。御言葉をともに読み、聖霊の満たしを体験したにも関わらず、約束の地に入れなかった人たちがいます。彼らはむさぼり(民11:4)、偶像崇拝をし(出32:4)、姦淫の罪を犯し(民25:1-9)、また主を試み蛇によって滅ぼされました(民21:6)。さらに、アロンの職に対しつぶやいたコラの一族は、地面が割れて落ちてしまいました(民21:22)。パウロはこれらのことは、今生きている者たちへの戒めだと言っています(6)。マナを食べ、岩から水を飲んでも、戒めが必要なのです。自分はクリスチャンだから大丈夫という変な確信は捨てるべきだと思います。信じているからこそ戒めが必要なのです。逆に言うなら、戒めを守ろうとする姿が、信じる者の姿ではないでしょうか。何も守るべきものがないのなら、それは未信者の生活と何ら変わりがありません。たとえば安息日…日曜を礼拝のために捧げるのは、神が最初に掲げた戒めを守ろうとしているからです。人の努力ではなく、聖霊の助けによって戒めが成就するなら神の栄光はどれだけ輝くことでしょう。