劣った部分

1コリ12:24「かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです」
主が高慢な者を嫌っているのは周知のことと思いますが、弱い者に目をとめ、へりくだる者はさらに大きな恵みを与えようとします。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む(イザ57:15)」…とあるように、ともに住んでくださるのです。主がともにいてくださることほど心強いものはないでしょう。パウロは「劣ったところ」と言っていますが、人は誰しも劣った部分があるものです。教会の弱さ、人の弱さが増せば増すほど神の働くチャンスが生まれてきます。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである(2コリ12:9)」と書かれてあるとおりです。それは神が必要となるのは、人が弱ったときだからです。健康上の問題、経済的な問題、人間関係など多くの問題が人生にあります。同様に教会でも多くの問題が起きます。人の力でどうしようもなくなったとき、誰もが超自然的な力に頼ろうとします。目には見えないけれども、何かがあると信じているからです。もし、世界中の人が無神論者なら、寺院や寺、偶像などは1つも存在しないはずです。しかし、有史以来、偶像がなかった時代はありません。それは、人の弱さの象徴なだと思います。世界中にある偶像が、人には神が必要だと証明しているのです。