敵意

エペソ2:16「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」
両者とは肉と廃棄された律法のことです。聖書では「敵意」だと書かれています。肉を造られた神は、肉が常に主の御心に反することを知っていました。肉のおもむくままに行動するなら、人は神からどんどん離れていきます。そのために律法があったのです。律法は人の肉に敵対し、人が思い通りにする自由を奪いました。少なくとも人にはそう見えたはずです。せっかくの自由な意思を自分のために使うのは、ごく自然なことです。しかし、神は人を造られた本当の意味を知って欲しかったのです。律法は大きな壁となり、中には律法に従わない人たちもいました。それでも神を認め、神に近づこうとするなら、その人は律法を乗り越えた主の愛を見出すことができたでしょう。ダビデは主の愛に気づくことができた代表的な人物だといえます。とは言うものの、ダビデのように信仰があり、なおかつ主と愛し合う関係になることができたのは稀なケースだと思います。結局、人と和解する主の計画はイエス様の十字架まで待たなければなりません。それまでに律法は変化を続け、イエス様が地上に来られたときには、何がなんだかわからないほど、複雑化してとても主の御心に叶うものではありませんでした。主の愛が敵意を砕いたのです。