過失も主の計画?

ヨシュア20:3「あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる」
逃れの町に逃げることができるのは、あくまで過失の罪の場合です。しかし、復讐の権利は殺された親族に残っています。現代のように過失によって人を死なせてしまった場合、無罪となり誰からもとがめられるようなケースはないということです。うっかり逃れの町の外をノコノコと歩くなら、殺された親族に見つかり復讐を受けたとしても文句は言えません。そういう意味においては、逃れの町は古代イスラエルの刑務所的な役割を果たしていたと思います。刑期は大祭司が死ぬまでです。大祭司が長生きなら、長い間逃れの町から出ることができません。どんな理由にしろ、人を殺めた者と殺された親族が同じコミュニティにいることは難しいでしょう。現代では交通事故のようなケースでも、悪質なら裁判にかけられ刑務所に入ることもあります。クリスチャンといえども過失はあり、ひょっとしたら人を死なせてしまうことがないとは言い切れません。たとえ、自分が刑務所に入ることがあろうとも信仰を失わず、事故も主の計画なのだと考えることができる人は幸いだと思います。信仰のある人たちが守られ、トラブルを起こさないことを祈りますが、主のご計画は私たちの想像をはるかに超えていることも心に留めておくべきでしょう。