ともに論じ合おう

イザヤ1:18「「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」
「論じ合おう」という言葉はイザヤ書の中に2回出てきます(43:26)。今までの印象としては、神は「聞け」とか「守れ」とか命令を出し、人はそれに従うという構図でした。しかし、イザヤが受けた啓示には「論じ合おう」と言われているのです。43章では「共に論じ合おう」と神と人がまるで語らうことができるような言い回しです。実際には、主の顔を見ることもかなわず、あまりにも高潔なゆえに人は神の前に立つことさえできません。私たちは何を論じればよいのでしょうか?43章では「身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ」とあり、述べ立てるのは人からで、身の潔白を明かすための論議だとわかります。この箇所でも、罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる、と書かれています。神の最大の関心事は「罪」なのでしょうか?人は肉体を与えられたために、素直に主に従うことができません。前に進もうとしても、強いバネで後ろに引っ張られるように、肉は人の前進を妨げます。神と人とをさえぎるものは、肉の思いです。イエス様を天から遣わせて、人と同じ姿にしたのも、すべてこの罪1点に集中するためです。罪なくして福音はありえません。論じ合うべきことは、福音であり、神の栄光なのではないでしょうか?