思い上がり

イザヤ10:15「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか」
おごり、高ぶりがいかに愚かなことで、無意味なものかを知らしめる言葉です。造られたものが、創造主にむかって高ぶることなど滑稽に見えるだけです。しかし、人には心があり、選択する自由が与えられ、自らの意思によって神を礼拝することもできるし、自分の肉の思いのままに行動することも許されています。主は自分の言うことを聞くロボットを作りたかったわけでなく、自ら考え、自分の判断で主と交わることを選択する被創造物を創ろうとしたのです。肉は主の思いの象徴です。肉がなく、霊と魂だけなら簡単に神を求めることができたでしょう。肉が神を求めることを妨げ、人の思いを狂わせるのです。そして、挙げ句の果てには人は神よりも高みに登れると勘違いし始めます。主に向かって高ぶることがいかに無意味かは、頭では判っていてもなかなかへりくだることが行いとして現れません。「井の中の蛙」でいるなら、世界は広がらず、小さいことにしかこだわれないでしょう。視野を広げ、いかに世界は広く、自分の思い上がりなど小さいものにしか過ぎないと悟ることです。人ではなく、「斧」や「のこぎり」として生きるのは心外なことです。