夜明けまで

イザ21:22「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か』」
ドマはエサウの子孫、エドム人のことです。夜の時間を気にしているのは、明け方が待ち遠しいからです。どんな人生でも暗黒な時代はあります。そこを通り抜ければ必ず明るい世界が広がっている、と思いたいものです。主が造りだされる一人一人の人生も、山あり谷ありのものだと思います。人生のうちに何も挫折がなければ、その人はひょっとしたら神から愛されていないのかも知れません。主は愛するものを懲らしめるお方です(箴13:24)。人にとっては苦くても、のどを通って体に入るなら甘くなります。御言葉はそのような効果があり、神がおられるという希望がその裏づけになっています。希望は暗闇が決してずっと続くものではなく、どこかで必ず光が差すという信仰が支えるものです。すっと暗闇、ずっと苦しみ、ずっと痛みがあるのは地獄でしょう。そこにはもはや希望がありません。夜が明けるのはいつだ…と聞きたくなるのはごく自然のことだと思います。イザヤに与えられた幻の中で夜回りは、朝は来ると答えています。神を信頼するものにとってこの例えは非常に大きな教えが隠れていると思います。夜は長くなるかも知れません。しかし、主の用意した時間はみな平等です。夜明けの光を忍耐して待てる人は幸いです。