神の言葉を預かるなら

イザ20:4「アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く」
エジプトもクシュも当時は勢力のある大国でした。しかし、イザヤに下された主の命令は相当過酷なものだったのです。それは、エジプトとクシュの民がどのようにアッシリアに占領され、捕囚としてどのような扱いを受けるかを示すためのものでした。預言者は口頭で神の示された言葉を伝えるだけかと思えば、それだけではなさそうです。日本にはお風呂という風習がありますが、外国から来た人は洋の東西を問わず、裸になって湯船につかることに抵抗を示します。それだけ裸を人前にさらけ出すことは日常ではありえないのです。イスラムの国々では、女性は外出するときは必ずベールで顔を覆い、肌を露出させないように黒い衣装を着ます。これに反するなら、捕らえられ処罰を受けることになります。まして尻をまくりあげられ、恥ずかしい部分をさらして歩くことなど論外です。イザヤはやがて来る悲劇に対して、身をもって示さなければなりませんでした。預言者は死ぬ覚悟で神に従っているかを試されるようです。それは神の言葉を預かる者の使命だと思います。現代でも神の言葉を預かる者には厳しいさばきがあると聖書にあります(ヤコ3:1)。牧師や教師になりたいと思うなら、イザヤのように恥部をさらして歩ける信仰があるでしょうか?