主を喜ぶ

イザ64:5「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか」
自分は救われて、罪の生活を送っていないし、主にあって何事も順風満帆だから大丈夫だというなら問題ないでしょう。しかし、主はどんなに人にも成長を願って、難しい課題を与えられます。今は、何の障害がなくてもやがて大きな波がくるでしょう。別に脅かして言っているわけではありません。経験からそうなるだろうと言っているのです。それが人生であり、人が忍耐を養うには大きな試練が必要です。神が罪のままの人を受け入れることはありませんが、もし、人の罪が赦されたとしたら、次に必要なことは神と正面から対峙したとしても恥じることなく堂々と話し合える人格を持つことです。罪が赦されただけの状態は、弱く品性の欠けた、練られていない人格のままです。人生で笑える時間よりも、悩み苦しみ主にすがる時間が長いほうが、結果的には主のためになります。しかし、主はそのような苦しみや試練の中から主を喜ぶことを教えてくださるのです。自分の欲求が満たされて喜ぶのではなく、主にあって、主を喜ぶ喜びこそ聖書の教える喜びだと思います。笑いが自分のためでなく、主を喜ぶ人は幸いです。