毒麦のたとえ

黙14:19「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた」
収穫のときがきました。もう刈り取りを待つ時間は終わりました。実は熟し、良い実と悪い実ははっきりと結果を出しています。この箇所を読むときにイエス様の言われた毒麦の話を思い出します。「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさいと言います(マタ13:30)」…ここの表現と黙示録の表現が全く一致するのです。神は毒麦があったとしても抜かないで育つままにしなさい、と言われました。それは間違って良い麦も抜いてしまうかもしれないからです(マタ13:29)。刈り取りをする鎌を持った御使いは間違えようがありません。まず、刈り取られ集められたのは神の御怒りに触れる実です。その実は大きな酒ぶねに投げ入れられる、とあります。神の忍耐は最後までこの酒ぶねに入らないように、と願う愛の表れだったのだと思います。しかし、神には定めたときがあります。すべては神の御心、計画の通りに進行していきます。それゆえ聖書には多くの戒めと警告がちりばめられているのです。それを本当と信じるかどうかは読む人の信仰ですが、最後まで信仰を持てる人でありたいものです。