詩123:2「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで」
主人の手とは、指示を与えるものです。時には指先だけで指し示す場合もあるでしょう。主人と奴隷の関係でなくても、長い付き合いの中で目を見たり、ちょっとした動作を見て何をするかを悟ることができたりします。「あうん」の呼吸のようなものです。そこにはもはやいちいち「こうすればいいのですか」などと確認の言葉は必要ではありません。主人が手を指し示すなら、奴隷は何をすべきかを知っているのです。ちょうどそのように、この詩篇の作者は神の手に目を向けています…と告白しているのです。なぜでしょうか?あざけられているからです(3)。人から馬鹿にされ、無視され攻撃までうけるなら、心は重圧でつぶされそうになります。そんなときに的確な助言者、アドバイザー、カウンセラーなどがいればその人たちに頼ることができるでしょう。しかし、本当に心を埋めてくださるお方はただひとりです。人の助言はなぐさめにはなりますが、神の言葉のように力にはなり得ないでしょう。この筆者のように、「いつでもこのしもべに指示を与えてください」という態度で主に向かい、祈り求めるなら、必ずその答えは人生の糧になるものだと思います。
主人の手とは、指示を与えるものです。時には指先だけで指し示す場合もあるでしょう。主人と奴隷の関係でなくても、長い付き合いの中で目を見たり、ちょっとした動作を見て何をするかを悟ることができたりします。「あうん」の呼吸のようなものです。そこにはもはやいちいち「こうすればいいのですか」などと確認の言葉は必要ではありません。主人が手を指し示すなら、奴隷は何をすべきかを知っているのです。ちょうどそのように、この詩篇の作者は神の手に目を向けています…と告白しているのです。なぜでしょうか?あざけられているからです(3)。人から馬鹿にされ、無視され攻撃までうけるなら、心は重圧でつぶされそうになります。そんなときに的確な助言者、アドバイザー、カウンセラーなどがいればその人たちに頼ることができるでしょう。しかし、本当に心を埋めてくださるお方はただひとりです。人の助言はなぐさめにはなりますが、神の言葉のように力にはなり得ないでしょう。この筆者のように、「いつでもこのしもべに指示を与えてください」という態度で主に向かい、祈り求めるなら、必ずその答えは人生の糧になるものだと思います。