主が家を建てるのでなければ

詩127:1「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」
すべては主のもとにあるという意味です。もし主に救われクリスチャンとなったとしても、主と交わりがなければどうやって自分の思いを伝えることができるでしょうか?聖書を読まずしてどうやって御心を知ることができるでしょうか?主が意図しないことをどんなにやっても無駄です。パウロはテサロニケの教会に向けて、いつも喜び、絶えず祈りなさい(1テサ5:17)…と勧めています。絶えず祈ることは、主の御心の中にいることを示し、主の隣在と助けがその人とともにあるようになります。イエス様は大勢の群集から抜け出して、独りになり父なる神との交わりをいつも大事にしていました(ルカ9:18など)。ゲツセマネの園でもユダに裏切られ、逮捕される直前まで祈っていました。楽しい交わりも大切ですが、独りになり祈り求めることも大切なことだと思います。なぜならイエス様がそうされたからです。いつも自分の心をチェックして、自分本位の判断かどうかを調べる必要があります。もし、計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう(使5:38)。少し長い時間をおいて、御心かどうかを見極める必要があります。なぜなら今の時代には権力と栄光はサタンの手に委ねられているからです(ルカ4:6)。