主がそう仕向けた

1王12:15「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたからである」
レハブアムは長老の柔和路線を受け入れることもできたでしょう。しかし、聖書には主がそう仕向けられたから、だと書かれています。主は「王になれ、祝福しよう」とは言いませんでした。「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い…中略…わたしの見る目にかなうことを行なうなら(11:38)」と言われたのです。「もし○○ならば…祝福を与えよう」というスタイルは旧約の中でずっと貫かれた主の態度です。旧約の「約」は、英語では「testament」で「契約」と訳せます。聖書は神と人との契約で成り立っています。それは、創世記に人を造った時から始まっています。なぜなら、人には選択する自由があり、人が神を選ぶかどうかを人の判断に委ねられているからです。レハブアムにはチャンスがありました。しかしアヒヤを通して、ヤロブアムに10部族が付くようになる約束を実現するために、主が働かれレハブアムがイスラエルの民に対してより厳しい判断を選ばせたのです。もし、レハブアムが主に祈り求め、長老や若者たちに意見を聞かず、主ご自身に拠り頼んでいたら歴史は変わっていたかも知れません。主の力にはかないませんが、それでも主を求める者には、目を留めてくださるのだと思います。