ぼう然とするエゼキエル

エゼ3:15「そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた」
エゼキエル自身も捕囚の身でありながら、主の言葉を伝えよと命じられています。しかし、エゼキエルがテルアビブで見た同胞たちの姿は、あまりにもみすぼらしく情けない様子でした。それゆえエゼキエルは7日間も、何もできず、ただぼう然としていた…とあります。イスラエルが連戦連勝で、どの国にも打ち勝ち、他国を制圧していたなら、エゼキエルの言葉は信用できたでしょう。しかし、彼らの心の中には「神は私たちを見捨てられた」という自暴自棄の思いがあり、「神などいるものか」という不信仰にあるイスラエルの民に言葉を語らなければならなかったのです。そんなエゼキエルに主は2つのものを与えました。1つは「巻き物」で、もう1つは、霊です。エゼキエルは霊によって引き上げられ(12)、持ち上げ、捕らえられ(14)、立ち上げられました(24)。御言葉がどんなに蜜のように甘くても、エゼキエルは現実に直面したときぼう然としてしまいました。神の霊により、励まされ、奮い立たされてようやく預言を語ることができたのです。聖書を読むときには解き明かされ、真理が示され、心の糧としては良いものだと思います。しかし、いざ実行するとなると、聖霊の助けが必要になります。エゼキエルもちょうど同じ体験をしていたのだと思います。