怒りと憤りと譴責

エゼ5:15「わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。主であるわたしがこれを告げる」
バビロニアアッシリアが主の目にかなう、約束の民ではありませんでした。約束の民はイスラエルの民で、主だけを神として礼拝するように命じられていたはずです。度重なるイスラエルの裏切りに大いなる神の怒りがぶちまけられる時が来ました。3分の1は災害や疫病で、3分の1は戦争で、さらに3分の1は各地に散らされる…と預言されています(12)。主を怒らせたのは、主を近くに感じられず、目に見えないことをいいことに好き勝手をやった結果です。主を常に近くに感じられる人は節度をわきまえ、常識のある行動ができます。しかし、主から離れていくなら、肉の思いのままに行動するようになります。終末には同性愛が増えることがわかっていますが、ここでは父が子を食べ、子が父を食べる(10)と書かれており、同性愛とは比べ物にならないほどのおぞましさです。主が生きておられることを信じているなら、祝福と同じように呪いや主が怒られたときの災いをも信じられるはずです。主の愛の面を見ることが望ましいことですが、災いを引き起こすねたむ神であることも心に留めておくべきだと思います。