森の中のぶどうの木

エゼ15:2「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか」
ぶどうは実をつけるように栽培された畑の中にあれば、実を収穫でき役に立ちます。しかし、森の木の中にほかの木と絡まるように実をつけても収穫はできません。ぶどうはイスラエルの民であり、クリスチャンです。イエス様ご自身が「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です(ヨハ15:1-2)」と言われています。クリスチャンが実を結ばなければ、主はお怒りになるでしょう。何年祈っても、あるいは聖書を読んでも変化がなければ、その人と神との関係は「本当に信じているのだろうか」と疑われます。行為が形式だけのものになってしまうことは悲しいことです。同じことを繰り返すうちに飽きてしまい、最初の情熱が失われてしまうことは仕方のないことかもしれません。しかし、主を求める態度がそうであってはなりません。そういう意味においては、人生の中にある神からの試練は大切なきっかけになるでしょう。ヤコブが試練の中にあるときは喜びなさい(ヤコ1:2)、と言ったのは耐え難い同じことの繰り返しから脱却できるチャンスが与えられたのだと判断しても良いでしょう。新たに主を求める力が試練の中に隠されています。ぶどうが実を結ぶ瞬間が、そのときだと思います。