悲しみの歌、哀歌

エゼ19:14「『火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった』これは悲しみの歌、哀歌となった」
ユダ王国ダビデ家系の末裔を指します。ダビデの子孫が絶えてしまうなら、イエス様の誕生までが失われることになり、人類への救いが永遠に絶たれてしまうことにもなりかねません。ここでは雌獅子が子を産み、その若獅子が人を食い尽くし悪い道を歩んでしまったゆえに、バビロンに捕囚にあい、滅ぼされてしまうことが書かれています。罪に対する代償と戒めはとにかく行なわれなければなりません。主が、罪を放置し人類に対して何の警告も与えなければ、律法の意味が失われてしまいます。律法が罪を浮かびあがらせるようになるには誰かが違反する必要があります(ロマ3:20)。そういう意味においては、歴代の王たちは十分に違反を示してくれました。そして、罪に対する代償も支払わなければならないことを学んだのです。歴史の中で誰も罪を犯さず、最初から主に100%の信頼と信仰があるなら、律法は無意味なものですし、そもそも律法が存在する必要がありません。しかし、律法があるということの裏返しは罪が存在するという証拠でもあるのです。罪を犯させる、肉の思いとどう向き合うかが人に与えられた課題です。エゼキエルの時代にひとつの歴史に幕が下ります。ユダ王国が滅亡したとしても、人には罪が残っているのです。主のご計画は次のステージへと移っていきます。