主の知恵

箴1:23「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」
わたしとは「知恵」のことです(20)。霊を注ぐからには主のことを指しているのだと思います。叱責は語意の強い言葉で英語では「rebuke」が使われ、強く叱るとか非難するという意味になります。「いけない」とか「やめなさい」という忠告に耳を傾けなければ、霊も注がれず主の言葉も知らされないままです。ソロモンがこの箴言を書いたのは「知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するため(2)」だと言っています。自分が正しいと思っていても人生を学習しないで過ごしてしまうなら、自己中心的な思いを捨てられずに自分勝手に振舞うことでしょう。自分に都合の良いことが他人にとっては都合の悪いこともあり得るのです。相手を思いやる気持ちを人生の中で学んでいかなければ、主からの叱責は免れないでしょう。心が砕かれ、へりくだることを学ぶことができたとき、ソロモンの箴言は生ける言葉となり、悟りとなって大切な教訓を理解することができるのです。人は善悪を知る実を食べている以上、自分なりに善と悪を見極めようとします。しかし、それは独裁的な考えになりがちです。ソロモンの言うように主から与えられた知恵で善悪を知ろうとするなら、それは自分勝手な判断ではなく正しい判断になり得ると思います。