祈りが忌み嫌われる?

箴28:9「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる」
祈りが主との交わりのときであるなら、その祈りが嫌われてしまうと、なすすべがありません。常に人の必要や訴えを神に聞いてもらわなければ、誰に申し出て正しい判断をしてもらうのでしょうか?人の問題を人が解決しようとしても、無理があります。人の悟りは主の愚かさよりも、愚かだからです。神が誰の祈りでも、あるいはどんな祈りでも応えられると思ったら大間違いです。「お金持ちになりたい」「人から賞賛を受けたい」とどんなに祈っても主が聞かれるはずもありません。その人にはその人なりの人生が用意されており、他と見比べて自分は劣っているとか、祝福が足りないと嘆くために、主を信じているわけでもないでしょう。聖書を読むすべての人に訴えたいことは、主との個人的な関係が確立しなければ、周りを見て押しつぶされていくだけです。誰かがするから自分もやるのではなく、自分と神との関係において確信ある信仰に基づいて行動すべきです。「主を恐れてる人は幸い(14)」とあるように、周りの目は関係ありません。ただ主への信仰のみがすべてに優先され、主に対する思いがすべての判断の基準になるべきです。風潮やうわさに押し流されないことです。主との生命線である「祈り」が忌み嫌われないように、主の教えから耳をそらさずに信仰を確立させましょう。