現実に向き合う

哀歌5:22「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか」
試練の期間が長いと「本当に主はこの状況から回復してくださるのだろうか」と疑いたくなるときがあります。長い沈黙ほど神に近づけるチャンスはないと思います。神の考えていることをすぐに知ろうとしても無理があります。「わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い(イザ55:9)」とあるように、人の俗的な考え方で神を知ろうとするなら、理解できないことに苦しむだけです。自分に都合がいいことがすべて御心だと思って祈り続けていくなら、どこかでつまずきます。あくまでも主の御心に従えるように、心をニュートラルにしておく必要があります。旧約時代に祭司のふところにあったウリムとトンミムという石はまさに、主の御心をうかがうためのものです。また、イスカリオテ・ユダが抜けた後任を決める際にも「くじ」で決められました(使1:26)。能力があるからとか、容姿が整っているからとか…人間的な思いは排除され、ただ主の御心に従ったのです。捕囚にあったユダヤ人たちは自分たちの犯した罪と向き合う時間を与えられました。哀歌の原題は「eykoh(エホーあるいはエーホー)」で、日本語では感嘆詞「ああ」と訳されています。目の前に起きた不思議な出来事に感嘆することはたくさんあるでしょう。捕囚もまた主がユダヤ人に与えた、感嘆すべき出来事なのです。