わたしが世話をする

ホセ14:8「エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」
「エフライムは偶像にくみしている、そのなすにまかせよ(4:17)」…とまで言われたエフライムに、主が直接世話をすると宣言されています。主はある時期には、人が自由にすることをそのままにしておくことがあります。それはまるで子どもが転んでもすぐに起こさない親のようです。何から何まで主が見張り、注意して、ちょっとでも間違った方向に行こうとするならすぐにストップをかける…という過保護の親とはちょっと違います。それは人類創世のときに言われた「あたなは園のどの木からも思いのまま食べてよい(創2:16)」という人の自由意志を尊重されているからです。人は自由に自分の道を選ぶことができます。しかし、人が造られた最大の理由は主と交わることによって、主の栄光を現すためです。主は人がどんなに道を誤っても、最後には主を見つけ、主に拠り頼み、主と共に歩む人生を選ぶだろうと確信しておられます。もし、人生の中で主を見つけるなら、もはや今まで仕えていた偶像とは何のかかわりもありません。主を知ったときから、主が答え、主が世話をしてくださるのです。偶像とはそれまで心を埋めていたあらゆる物質や価値観、あるいは人間関係などのことです。主のみが心を満たし、人生の道しるべになってくださるお方です。