御顔を隠される

ミカ3:4「それで、彼らが主に叫んでも、主は彼らに答えない。その時、主は彼らから顔を隠される。彼らの行ないが悪いからだ」
どんなにきれい事を言っても、その人の行ないが悪いなら誰も彼を信用しないでしょう。「助けてください」とどんなに懇願されても、主は御顔を隠される…とあります。その理由としては「彼らの行ないが悪いからだ」と書かれています。神は心を見られますが、さらに進んで心にあるものが本当にその人を動かしているかを見られます。「聖書を読むのはわかっているけど」「祈らなければならないのは知っているのだが」というのは言い訳にしか過ぎません。理解しているなら、その理解を行動に移し、周りの人に自分が理解していることを示さなければなりません。律法と罪はそういう意味において、相関関係の深いものです。律法が守られないとき、人の心には罪の意識が生じます(ロマ3:20)。主の心がイスラエルの民から離れるときは、行ないの中に「義」が認められず、律法から逸脱した行為があったときです。現在でもこの原理は生きていると思います。しかし、恵みによりイエス・キリストを信じた者には罪の下にないことが聖書に書かれています(ロマ6:14)。律法を守る時代から、聖霊に導かれイエス・キリストを信じる信仰によって歩む者たちは、義の奴隷となり罪からは解放されるのです(ロマ6:18)。それでも罪にとどまるなら、主は御顔を隠されるでしょう。