思い直す主

ゼカリヤ8:15「しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな」
主は最初は「わたしはあなたがたにわざわいを下そうと考えた(14)」と言われ、考えを変えたことを明かしています。主が心変わりすることは奇妙なことですが、聖書の中には何らかのきっかけで主が思いを変える場面が書かれています。たとえば、ノアの時代に「地上に人を造ったことを悔やみ…(創6:6)」とあり、また出エジプト後、モーセが山にいる間に偶像を作り罪を犯したときも「民に下すと仰せられたわざわいを思いなおされた(出32:14)」とあります。さらにヨナ書ではニネベの人が悪から立ち返る努力を見て「彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し…(ヨナ3:10)」と書かれ、いずれも初めの決定を覆したように見えます。しかし、聖書の別の箇所には「わたしは変ることがない(マラ3:6)」とか「イエスキリストはきのうも今日も、いつまでも同じです(ヘブ13:8)」と書かれ、神の普遍性が示されています。神が変らないことは事実だと思います。それは、信じる者の生命線だからです。主の示す正義が時間の経過とともに変るのなら信じることができなくなってしまいます。ユダヤ人たちに対する主の愛は世の終わりまで変らないのでしょう。ただ、彼らの心の中に問題がありるのです。それでもユダヤ人の心が主に向かうなら、最初の愛を取り戻すことができるのだと思います。