ためしてみよ

マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」
エス様は「主を試みてはならない(マタ4:7)」と言われ、申命記の言葉を引用してサタンの誘惑を退けました(申6:16)。イエス様は、神殿の頂から身を投げるように言われたのです。それは自殺行為であり、神が天使を遣わし守らせなければ死んでしまいます。自分勝手な行為のために主の手を煩わし、たとえいのちが長らえたとしても、主の栄光にはつながりません。主は人を通して、ご自分の栄光を表わすために人を造られたのです。何か勘違いして、「あれやって」「これが足りない」と人に振り回されるなら、どちらが「主」でどちらが「従」なのかがわからなくなってしまいます。しかし、ここでは「わたしをためしてみよ」とあります。「え?試していいの?」と思う人もいるかも知れませんが、10分の1の原理に関しては唯一試すことが許されているのです。「豊かにまく者は、豊かに刈り取る(2コリ9:6)」また「神は喜んで与える人を愛してくださいます(2コリ9:7)」とあるように、捧げる側の心の中も見られています。ただ主を試すためにひも付きの献金をしても、主は喜ばれないと思います。捧げたのなら、必ず見返りがあり捧げたものの何倍も帰ってくるのだろう…と、乞食根性を捨てて主に従う信仰が必要なのです。