洗礼とは

マタ3:15「ところが、イエスは答えて言われた『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』そこで、ヨハネは承知した」
なぜイエス様が洗礼を受けたかについては様々な意見がありますが、イエス様ご自身の言葉を引用するならば「正しいこと」であるために洗礼を受けたと考えられます。そもそも罪のないイエス様が、罪を悔い改める水のバプテスマを受ける必要などないのです。「正しいこと」、ギリシャ語で「dikaiosyne(デカイオヤスネ)」は新約聖書で最初に登場する正義を表わす言葉で、それは神の御心を表わしています。では洗礼を受けなければどうなるのでしょう?物理的には何も起きないと思えますが、パウロは「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです(ロマ6:4)」と言い、罪をあらかじめ葬るためにイエス様が道を備えていてくださったことがわかります。それゆえにイエス・キリストを信じるなら、イエス様が行なわれた受ける必要のない水のバプテスマによって罪が葬られたことをも信じられるはずです。処女から生まれ、数々の奇跡を行ない、死んで3日目に甦った、そして、それらは人を罪から購うためだという信仰の基礎は、そのままイエス様の洗礼を受け入れることにつながります。教会のメンバーになるためでなく、キリストともに葬られる、という信仰が洗礼のキーワードだと思います。