顔は見ていない

出33:20「また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである』」
11節には「顔と顔とを合わせてモーセに語られた」と書かれています。矛盾するできごとです。この後、モーセは主の栄光を見せてもらうことで、主が目の前を通り過ぎたうしろ姿を目撃しています(23)。顔を見たのはずなのにうしろ姿だけを目撃する記述はどうも納得がいきません。ヨハネ福音書と手紙の中に、神を見たものはいないと証言しています(ヨハ1:18、1ヨハ4:12)。旧約ではヤコブは主と出合った場所をベヌエルと名付け、その意味は「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた(創32:30)」というものです。また士師記ではサムソンの父マノアも神を見たのに死ななかった…という記事もあります(士13:22)。一体どちらが本当のことなのでしょうか?ここからは推測ですが、ヤコブとマノアは神を見て死ななかった例外だと思います。それではモーセはどうなのでしょうか?主との会見の後、モーセの顔は輝き、おおいをつけていなければなりませんでした(34:35)。もし、主に会っただけでそれだけの光を放つなら、主の栄光の輝きはどれほどのものでしょう?主からすれば顔と顔を合わせたつもりでも、人にとっては太陽のまぶしさの中にいるようで、とても目など開けられたものではありません。モーセがあえて主を見たいと申し出たのも、栄光の輝きの中で主の本当の姿が見えていなかったからではないでしょうか。