主と水

詩29:10「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる
ダビデは「水」の上に主の御座があり、声があったと言っています(3)。「大洪水」はヘブル語mabbul(マッブール)」で、聖書の中ではノアの洪水の一連の記事の場所にしか登場しない言葉です(創6-11章)。そして3節に書かれている「水」あるいは「大水」は「mayim(マイム)」で創世記の最初に書かれている「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた(創1:2)」のときに使われいる言葉です。まだ地のかたちが定められていないときに、水だけはすでにありました。水によりノアの時代に一度世界は滅びました。それは主が完全に勝利し、主の栄光が輝いた瞬間でもあります。ダビデは大洪水のときに主の栄光が輝いたことを理解していました。それはイスラエルの民が出エジプトのときに、水をくぐり 抜けて救われたように、人類もまた大水のときに救われたことを表わしていると思います。クリスチャンは洗礼のときに、水をくぐり古い自分から新しい自分へと生まれ変わります。黙示録に書かれている新天地では水晶のように輝くいのちの川が流れていることが描かれています(黙22:1)。イエス様はサマリヤの女に「生ける水」をあげようと言われました(ヨハ4:10)。またイエス様のわきからは血と水が出ました(ヨハ19:34)。すべては神のご計画で、「水」は大切なキーワードです。