私が墓に下っても

詩30:9「私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか」
3節では「あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました」と書かれ、ダビデが多くの戦いで死にそうになっても助けられ、生かされていることを喜んでいるのがわかります。9節はダビデ得特の表現だと思います。「私の血に何の益があるのでしょうか」は、たとえ死んでダビデの血が流されたとしても、何も購われず、主にとっても人にとっても何の得にもなりません。それどころか、死んでやがて骨になりちりに戻ったとしても、そのちりが生きていたダビデがしたように主をほめたたえることができるのでしょうか?ダビデもちりから作られました。それは主のわざです。しかし、ダビデとちりとの間には大きな違いがあります。ダビデにはいのちが与えられ、 ちりにはそれがありません。もしダビデが死んだら、ダビデという人格はこの世にはいません。手を上げ、声をあげたり、踊ったり飛び跳ねたりして主を賛美することはできなくなります。死んで天国にいくことがクリスチャンの目的ではありません。生きている間がすべてを決定するのです。生かされ、いのちのある限り主を礼拝し、賛美することはいのちのある者の特権です。クリスチャンは特権を与えられた、特別に選ばれた民族です。ダビデは生かされている本当の意味がわかっていたのです。