衰えない信仰

ロマ4:19「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」
神はアブラハムに「あなたの子孫は星の数のようになる(創15:6)」と言われました。しかし、アブラハムが100歳になっても星の数どころか、最初の1人目の子どもも与えられていません。ここで普通なら「神様はきまぐれに子どもを与えるとおっしゃったのだ」と神の言葉を疑うのが人の心情です。事実アブラハムの妻サラは心の中で、「老いぼれてしまった私に何の楽しみがあろう(創18:12)」…と笑いました。それゆえに生まれてきた子どもはイサクと名付けられました。イサクの意味は「笑う」です。目に見えず、周りの状況が不可能と思える中でもあきらめず信じることがパウロの言おうとしていることです。罪は見えないものですが、その目に見えない罪のために実際に死なれたのは神ご自身です。神は人を造 ったときに肉体のゆえに罪を犯すことを知っていました。神には人を造った責任があります。神ご自身が人を造ったときに、自らのいのちをかけなければ人は完成しないことを覚悟していたのです。それはすべて人を愛する愛のゆえです。ご自分のいのちまで差し出し、愛を示されたのは神のほうからです。創造者がそこまでへりくだり、愛を示しておられるときに人はどのように応えるべきでしょうか?自分の周りの環境が良かろうが、悪かろうが主が生きておられ、人を愛しておられるのはこの世の最初から変わらぬ事実なのです。