わたしこそ、それ

申32:39「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」
ユダヤ教からキリスト教に移り変わるとき、異邦人がヘブライ語を読めないことから、旧約聖書ギリシャ語に翻訳することが進められてきました。いわゆる70人訳(Septuaginta セプトゥアジンタ)と呼ばれているもので、1~2世紀ごろに作業が始まり、3世紀ごろには完成したと言われています。その70人訳では「わたしこそ、それなのだ」は「エゴ・エイミ」と訳されており、あの「わたしはある(出3:14)」という有名なモーセに語った主の名前と同じ表現です。「I am who I am」は、神のみが表現できる名前です。唯一の神のみが人の生死を決定でき、人を傷つけもし、また癒すこともできるお方です。絶対的な権威があり、人の生死もこのお方の許しがなければ、生きることも死ぬこともできません。本来、罪を犯した人は生きる価値などないものですが、主の憐れみによって、またご計画のために生かされています。それは人を奴隷やロボットのように操るためではなく、お互いに愛し合う関係を望んでおられるからです。主が一言「わたしを愛しなさい」と命令すれば、その通りになるのかも知れません。しかし、それはもはや「愛」ではなく、強制的に作られた関係になってしまいます。主は愛を十字架を通してしめしてくださいました。「わたしこそ、それなのだ」…には深い主の愛が含まれたことばだと思います。