顔を隠される

申31:18「彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう」
主の戒めは罪を浮かび上げさせるだけのものでしかありません(ロマ3:20)。律法を完全に行なうことなどできないからです。モーセは死期がせまり、ヨシュアと共に主の前に立ちました。そのときに主が言われたのがこのことばです。主が顔を隠されたなら、もう主を見上げることもできません。人々は「神はいない」と騒ぐに違いありません。「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか(17)」…と彼らが何を言うかさえ預言されているのです。後世の私たちは何がこれから起きるかを知っていますが、当時のモーセヨシュアにはわからなかったでしょう。40年かけて約束の地に入り、これからバラ色の人生が待っている…誰もがそう思ったのではないでしょうか。しかし、主はここで契約を交わします。もし「この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら(16)」、主の怒りがイスラエルの民の上に燃え上がるのです。どんなに環境が良いところでも、主に信頼し主を見上げることがなければ、災いが降りかかってくるでしょう。主から顔を隠すとは決して言われたくないものです。