肉は食べない

詩50:13「わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」
捧げた動物の肉や血は主が食べたり、飲んだりするためのものではありません。血にはいのちが宿り(レビ17:11)、肉は神と反対の思いをもたらすものです(ロマ8:7)。いのちを捧げ、肉の思いを神の前に差し出すなら、神の怒りはひょっとしたら静まるのかもしれません。しかし、それでは自分のいのちがなくなってしまいます。生きたまま主に仕えるためには、何か身代わりになるものを捧げる必要があります。主が旧約の時代ににいけにえを捧げるのを命じたのは、主ご自身の飢えを満たすためでも、罪を許すためでもありません。罪が購われたのと許されたのは意味が違います。「購われた」の意味は同等の価値のものと交換する、あるいは買うことで本来の目的のものと見なすというものです。結局、律法は罪を浮かび上がらせ、罪の意識を生じさせるだけのものでした(ロマ3:20)。それも主のご計画で、いけにえを捧げる命令がなければ、人は罪の意識を負ったまま死んでいくだけの存在になってしまいます。イエス・キリストを信じる信仰だけが、罪が赦される唯一の方法です。長い時間をかけて、この方法を教える主の忍耐が私たちを救ったのです。