もうだめだ

イザ6:5「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから』」
イザヤ書の書き出しはヘブル語の「chazown(カゾン)」で「夢」とか「幻」の意味です(1:1)。つまり、イザヤ書はイザヤが見た幻をまとめた書簡だと最初に書かれているのです。天に引き上げられたのも、幻のひとつだったのかも知れません。そこで「王座に座しておられる主を見た(1)」とあります。そしてイザヤは「もうだめだ」と絶望しています。主を見たら、喜び、幸せな気持ちになるかと思いきや、自分のいのちはないと思った…と書かれているのです。ヤコブも神と格闘した後にその場所を「ペヌエル」と呼びました(創32:30)。その意味は「神の御顔」です。ヤコブは神の顔を見てなお生きながらえました。また、サムソンの父親マノアも神と会った後に「神の顔を見たから死ぬだろう(士13:22)」と言っています。これらの人々は、誰もが神を見たら死ぬということを知っていました。神に出会うことは人生の中で最も大きな出来事です。しかし、その威厳と聖さの前では、人は自分の未熟さと愚かさを悟らされるだけです。聖書には「いまだかつて、だれも神を見た者はありません(1ヨハ4:12)」と書かれていますが、イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから(マタ5:8)」と言われ、絶対不可能ではないことを教えてくれています。