罪を除いて得られる報酬

イザ27:9「それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ」
バアルやアシェラの祭壇が別の場所にあり、いけにえを捧げている間はまだましでした。しかし、マナセ王は一度壊されたバアルの祭壇を立て直し、アシェラの像を作り、こともあろうに主の宮に置いたのです(2王21:4)。そうなると、もう何の神殿だかわからなくなってしまいます。イザヤは主から罪を赦されたなら、祭壇と偶像がなくなると預言しています。それは、もはや主以外のものに頼る必要がなくなることを指しており、しかもそれが「報酬のすべて」だとさえ言われているのです。もちろん本当に偶像を拝むのは論外ですが、心を主以外のもので満たそうとしている、あるいは満たしているのなら、それは偶像崇拝を意味しています。自分はこれしかない、とか、自分はこれなら自慢できるとかいうものは、高慢への第一歩です。「行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです(エペ2:9)」…心にアシェラ像もバアルの祭壇もない人は、主の赦しの報酬を受けているのです。