なめらかな石

イザ57:6「谷川のなめらかな石がおまえの分け前、そこいらの石が、おまえの受ける割り当て。それらに、おまえは、注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげているが、こんな物で、わたしが慰められようか」
川からなめらかな石を拾ってきたのはダビデゴリアテと戦うときでした(1サム17:40)。サムエル記には5つの石を選んだ…と書かれています。角の取れたなめらかな状態は、使いやすく、融通のきく状態を表しています。ダビデが使えばゴリアテの倒す有益な一打になり得たのでしょうが、ここでは自分が勝手に彫った、都合に合わせて作った偶像のことを指しています。しかも、その偶像を主に見立ててぶどう酒を注いだり、穀物をささげたりしているのです。もちろん偶像崇拝への批判なのですが、自分の心の中で神のイメージを都合よく理解している人にもこれは当てはまるのではないでしょうか?優しいことばは受け入れられても、厳しいことばには背を向けてしまうのなら、主がどんなに語っても片手落ちになってしまいます。偶像は人の作り出したもので、目に見えない神をなんとか具現化しようとする心の働きが招いたものです。つまり、偶像そのものが人の都合であり、それをなめらかにして使いやすくしても、主の御心ははるか天高くあるのです。