金がなくても

イザ55:1「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」
エス様が仮庵の祭りに行かれたとき(ヨハ7:1)、「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい(ヨハ7:37)」と言われました。これはイザヤの引用でもあり、仮庵の祭りの終わりにシロアムの池から水をくみ、祭壇に注ぐ儀式にあわせて言ったものだと思われます。この儀式は荒野で水がないときにモーセが岩から水を出したことに由来しています(出17:3-6)。ヨハネ福音書ではこの水は後に来られる聖霊のことだと説明されています(ヨハ7:30)。また、ペテロとヨハネは美しの門で、足の不自由な男をいやした記事が使徒にあります(使3:1-7)。いやされた男もペテロもヨハネも、みんな金を持っていませんでした。金がなくても与えることができ、金がなくても受けることができたのです。この男は歩き、跳ねながら、賛美した…とあります(使3:8)。ペテロの神の名によって宣言されたことばを聞いたから元気になったのです。水(御霊)も穀物(御言葉)もただでもらえます。祭壇ではいけにえの脂肪はすべて主に捧げ、祭司は脂のない肉を食べていました(レビ3:4)。しかし、主が与えてくださる御言葉には、旨み(脂肪)がたっぷりで元気付けられるのです。