主の霊が私の上に

イザ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」
主の霊がわたしの上にある…と言っても、それが世の中に受け入れられるかどうかは別です。そこが真の預言者か世を偽るにせ預言者との違いです。「神はわたしを遣わした」と言って、不思議なわざでも伴おうものなら完璧です。誰もがこの人こそ神から遣わされた預言者だ、ということになるでしょう。不思議なわざは悪霊にも可能なようで、モーセも呪術師たちに主と同じようなわざをされて悩まされていました(出7章)。しかし、イエス様はほかのインチキ預言者とは違っていました。神の子であられるのに、特定の寝床も持たず(ルカ9:58)、人のため祈り、いやしのわざを行なわれたのです。イエス様の罪が決定的になったのは「神の子か?」という質問に「わたしはそれです」と答えられたことによります(ルカ22:70)。それでもローマはイエス様の罪を「ユダヤの王」だとして、神の子と名乗ったことは罪に問いませんでした(ルカ23:38)。「わたしこそ、神から遣わされた」という人がいるなら、その人の生活ぶりを調べてみるといいでしょう。どんなときにも、またどんなことでも主の栄光を表せる人ならその人は本物です。神を愛し、人を愛することのできる人ならば、そばにいても主の平安があるのです。