見たことも聞いたことも

イザ64:4「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません」
パウロはコリント教会にこの一節を引用して、神のなされることの不思議さ、偉大さを説明しています。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(1コリ2:9)」…人の経験だけをもとに神を理解しようとするのは無理があります。イザヤもパウロも言うように、まったく見たことも、聞いたこともなく、心に思い浮かんだこともないことを主はなさるのです。祈るときに条件をつけて祈る人もいるようですが、それは神のわざを制限しているようなものです。主が本当になさることを、心から願い、祈るなら、今までに経験したことのないような奇跡を見ることができるかもしれません。たとえ、祈りの結果が自分に不都合であっても、主の御名によって祈ったのならそ の結果を受け入れる信仰が必要です。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです(1コリ2:10)」…聖霊によって、見たこともない奇跡を体験できる人は幸いだと思います。